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タヒチ ポピュラー音楽の重要人物ボビーホルカム 天才没後20年


1991年2月15日金曜日 長患いの末、亡くなっていなければ現在2011年でボビーは65歳になっていたはず。没後20年、彼の名は80年代のポリネシアの音楽、絵画の独特の型の同意語であり続ける。

ボビーは当時、まさに文化復活のシンボルであったし、
彼の絵や歌はポリネシアの遺産になっている。

1947年にハワイ・オアフ島で生まれた。父はジョージア州出身、母はハワイとポルトガルのハーフ。
ボビーは若くに太平洋の島々の伝説に興味を持ち、あらゆる形での芸術に惹かれた。

彼の音楽、絵画の天賦の才能は、絵画ではダリ、
音楽ではフランクザッパらのアーテイスト達と交わる事でさらに完成された。

1976年 タヒチに来るとすぐフアヒネ島のマレヴァ村に住んだ。
そこですぐに彼はその周辺では有名になった。
その才気だけでなく、タヒチ文化の心頭は人々の知るところとなった。

彼はタヒチ文化の中にハワイが何十年も前に失ってしまった人類の品位の全てを見つけたのである。
にこやかで穏やかなまなざし、彼のスタイルは以後変わることはなかった。
小柄で少しくたびれた感じのパレオシャツ、頭には花飾りのついたニアウの帽子、肩にはニアウのかご。彼はタヒチの島人の服装をしていました。
ただ、“ラスタ”風に編まれた彼の髪の毛は彼を目立たせ、伝説から抜け出してきたポリネシアの神のような雰囲気をだしていました。

そして、そのスタイルは“ポリネシア気質”を大事にする“Hombo”の若者達にとって必須のものとなりました。

彼の音楽の成功は次のふたつの土台によるものです。
レゲエ音楽とタヒチ音楽の歌を融合させることに成功したことと、タヒチ語“Le reo maohi”を習得したことです。
ボビーとポリネシアの間には愛の美しい歴史が始まりました。

文化の面ではアーテイストとしての、人々には人間としての歴史です。

フアヒネ島タヒチ島では“現在社会“に入る事に苦痛を感じるタヒチの人々と共に反乱に賛同しました。
核実験に反対して戦い、根源復帰を呼びかけ、メーセージを伝えるためには自分の歌のビデオクリップを作ったりして、公害反対のキャンペーンを広げました。

しかし、彼の影響が一番大きかったのは文化的な面においてです。

特に若者達のレベルにおいて、フアヒネ島では彼の家は全ての人に開けられていました。
彼に会いに来たポリネシアの人々の話に耳を傾けました。その事で、彼の”Reo Maohi”(タヒチ語)はますます上達しました。

彼の生来の気の良さやいつもユーモアのあるところがポリネシアの伝説の中にすっかり根付きました。

タヒチでボビーが人に好かれているのは本当です。
子供達に優しく、いつもにこやかで身なりは簡素で絵画や音楽に秀で優雅にフランス語を話し、又、好んで一生懸命タヒチ語を話していました。
人々はまるで彼を“いとこ”のように受け入れる時もあれば、長いこと外国にいて、ポリネシアに戻って家族を作った親のようにも受け入れています。というのも、彼自身がそう言いますし、又、彼はこの国の人によく似てるんです。 と1992年の友人”Bruno Saura”は書いています。

このBruno自身もタヒチの世界にすっかりはまりこんでいた人です。

音楽についてはボビーはまず”Arevareva”のスタジオで”Bobyy’s Housu”を収録し、カセットにもしました。そのカセットでは”Maire Tevaearii”と共に”Josephine Baker”の古い歌を採用し、” J’ ai Deux amours :mon pays c’est Polynesie”(僕にはふたつの愛がある。僕の国はポリネシアだ)という曲に編曲しました。
彼が”Orio”でFrancois Nanai主催のコンクールで賞を勝ち得てたくさんの人に知れ渡るようになったのは1985年の事です。
この事はOceane Production社との契約を彼にもたらし、彼の評判は上がり、RFOの聴衆やLA Depecheの読者の投票のおかげで彼は“Home de I’ Annee1990”1990年の年の人賞のタイトルを獲得しました。
これについては、悲しいことにいわゆる時代の文化ヘッドライト“Phares Cultuels”なんて称されて不愉快なコメントをされた事もありました。

しかし、又、ボビーの才能の他の素晴らしい面は絵画でした。とても独創的で底知れない感性を含んでいます。奇跡的ともいえるのはタヒチのとりこになったハワイ移民の彼の絵の数々が多くの素晴らしいタヒチ伝説を世に知らしめる源になったことです。

それだけでもボビーは”I Ordre de Tahiti Nuie”のグランドオフィシャルに並び称されるべきでしょうが、彼をよく知ればそんな称号など何としてでも拒否したでありましょう。

<タヒチ・パシフィック No119,2001年3月号>より翻訳:川口

アメリカ西海岸のウエストコーストサウンドのルーツの人物ともいえるニールヤングやステーブンステイルもタヒチへ訪れています。ニールヤングはボビーに連絡を取り彼のチャータークルーズ船にボビーを招待し、一晩中音楽談義に花を咲かしたようです。
ステイーブンステイルスがボビーに会ったのかどうかは定かではありませんが、彼の歌の“サザンクロス”はどうやらタヒチ島からマルケサス諸島へのクルージングの最中に作ったものと思われます。

ウエストコーストサウンドとボビーホルカムがどのように関わったのは分かりませんが、ボビーがレゲエ音楽の神様“ボブ マーレイ”のように著名なミュージシャンに影響を与えた一人なのかもしれません。



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